最近は言葉の濃淡が失われているようで少し寂しく感じます。極端に弱い言葉か過剰に強い言葉、それらが世の中を席巻しています。結果として真意が伝わらず平坦な言葉・陳腐な表現が羅列されているように思います。
一つ例を挙げると世間を賑わすような選挙があるたびに『美しすぎる○○(議員)』という言葉が溢れます。これ、よく聞きますよね!? でもよく考えれば非常に失礼な表現であることに世間はまだ気づいていません。
一つは外見や年齢だけを指して本質を評価していない表現であること。昨今非難を浴びているルッキズムです。これはマスコミの大罪です。小中学生に限らず、大人だってマスコミからの言葉の影響が大きいことを考えると。。。
二つ目はその人が美しすぎるなら他の人たちは美しくないのか!? という疑問です。もはやこれは議論に及びません。また、多様性を評価すべきとした現在の視点からも外れています。
しかしそのような問題があることを踏まえてもこの表現は廃る兆しが見えません。つまり、極端に強い(とされている)言葉だからです。世の中にインパクトを残すには手っ取り早い方法です。安易ですが。。。
もう一つ例を挙げましょう。少しでも見渡しのいい風景を安易に『絶景』と言い表す風潮は。。。他に表現があるはずなのにその言葉を探す努力をしていない、そう断じられても抗えません。
個人的な観点ですが、私は新田次郎の山岳小説に一時ドップリとはまりました。彼は同じ場所でも季節や天候が違えばそれに沿った表現を披露してくれました。
同じ上高地の様子でも夏の賑わいと厳しい冬・新緑の春と紅葉の秋、それらを的確に描き分ける言葉を用いていました。これ、言葉に貧しくなった現在にこそ必要なものだと思います。
そしてより強い表現を求め続けると弊害が起こります。特に近年は言葉だけで意思を伝えるSNSが一般に普及しています。面と向かって話せば和らぐ表現も言葉だけがポンと送られれば言葉の衝撃がダイレクトに響きます。
この夏はそれらが顕著に起こったように思います。オリンピック選手や芸能人の誹謗中傷、裏アカウントによるいじめなど言葉を武器に相手を傷つけることが多発しました。
言葉を発した側はそんな意図ではなかったと釈明しますが、時すでに遅しです。それなら適切な表現を使って真意が伝わるような工夫をすべきです。
これから先の時代、コミュニケーションにおける言葉の比重はより一層増すことが予想されています。それなら適切な表現ができるよう言葉の勉強にも意識を置くべきではないかと思います。
練りに練った言葉も必要ですが、当意即妙(即座にその場に適した機転を利かせること)な表現も必要です。そういった意味では持久力も瞬発力も求められるのが言葉の特性です。
お盆休み中、言葉について考えた私の愚痴でした。お付き合い頂きありがとうございます。
それはさておき…千葉市立中学校では夏休み明けに試験が待っています。それに向けて万全の準備も…必要ですよね!?