本章は前章から続いています。併せてご一読ください。
二人目はイレギュラーな形で学習を見ている小学生のBくんです。Bくんの学習は年に2回だけ見ています。彼も勉強が嫌いで半年の間につまずいてしまったところ、分からないところや苦手なところを一気に質問してくれます。
Bくんの勉強を見ること、実は楽しみにしています。彼は『こんなに分からないことだらけで… 恥ずかしいよぉ!』と下を向きますが、授業が終わるとそれらは殆どがクリアできているからです。授業中でも『分かってきた!』となってくると顔色が変わってきます。授業冒頭では嫌々ながらという表情ですが、授業が終わる頃にはとてもスッキリとした顔をしています。今回もそうでした。
彼の理解が学校進度に追いついていない理由は単純です。各単元・各科目の基本の部分でほんの些細なつまずきがいくつか続き、そのことが『どうせボクは勉強したって分かるわけないよ』と考える習慣作りをしてしまったのです。従ってその意識払拭が出来れば一番良いのですが、年に2回、数時間ではそこまでは至らず、自分の力不足を痛感させられます。
Bくんの学習を見ていて思うのですが、基本の部分での些細なつまずきは絶対に起こしてはならないことを再確認させられます。まぁ、これが『学校と塾の違い』なのだと思いますが… 学校の先生は『マニュアルにある解説・説明を児童・生徒に伝え、板書で補完する』で完結なのではないでしょうか。しかし私はそれだけではいけない気がします。
Bくんの学習を見ていると『スタンダードな説明では理解しきれない』ことが多いように感じます。それなら別の方法で説明し、それでもダメなら更に別の手段も使って…として理解して貰います。これが果たして学校で対応できるのか… 現実問題として難しいと思います。だからこそそこに『必要悪』の学習塾が求められるのです。
しかし、それで基本部分を理解できれば後はそれを活用していくだけです。1回たった1~2時間程度の授業でも相当量の演習をやることができるようになります。そしてお母様曰く『毎日30分が限界』の集中力もしっかりと継続できています。こうなると一緒に勉強をしている私も楽しくなります。これが冒頭に述べた『楽しい』の意味です。
AくんもBくんも『ボクは頭が悪いから勉強は解らない!』と言っています。しかしそれは違います。彼らは『勉強のやり方』が分からないだけ。しかも彼らに合う(と私が個人的に思っている)やり方は今の学校現場では少数派。でも、これは切り捨ててはいけない少数派だと思うのです。彼らが勉強を理解し、解き進められるようになる大切なツールなのですから。
前章本章と長文になってしまいました。お付き合い頂き、ありがとうございます。