先日、縁あって母校の蔵書を見学する機会を得ました。私の母校は歴史的価値の非常に高い文献が蔵書されていることで有名な大学です。ものによっては1,000年以上前の古文書が保管されています。なかなか一般公開される機会は少ないのですが、今回は好機を得てじかに目にすることが出来ました。
じっくり見ていると、数百年、1,000年の時間を経たのちであっても見る人に感動を呼び起こす、凄まじいまでの文化がこの国にもあったことが解ります。特に万葉集の写本(写本と言っても平安期頃に作られたもので文化的価値の非常に高いものです)は感情を揺さぶるものがありました。
私は万葉仮名が読めないので案内して下さった先生(まだお若い方でした)にご説明頂きました。そうすると万葉集に興味を持ちだした頃の感情が一気によみがえり、また勉強しようという気持ちになりました。教室に置いてある『万葉秀歌』をもう一度読もうかな…斎藤茂吉の手厳しい評論が懐かしいな…などと考えていました。
また、戦国~安土桃山時代における戦国武将の手紙も興味あるものでした。ここは別の先生(面識もあるお若い先生でした)よりご説明頂きました。母校でこの分野の研究は故桑田忠親先生(戦国時代や千利休の研究家として有名 有職故実研究の第一人者としても有名です)が大家としておられる分野です。手紙を出した武将とそれを受け取った武将の人柄や関係性に至るまで事細かに説明して頂きました。
見学を終えていくつか感じることがありました。一つは案内して下さった先生方が非常に熱心に学ばれ、そしてそれを伝えようと熱意を持って取り組んで下さったこと。これはそのまま今の私に求められるものです。果たして生徒さんが『今日の授業は本当に面白かった。だから家でも復習しよう』と思ってくれているかどうか、と言うことです。
やらされている勉強ではいつまで経っても本当の力にはならない、これは万人が是とするところではないでしょうか。いかに興味を引き出し、本人が学習(嫌なもの)と捉えない学習意欲をかき立てるか、学校でも学習塾でも命題として持ち続けなければならないことなのではないかと思います。
もう一つは文化です。1,000年前、数百年前の文書が今を生きる私達の魂を揺さぶることに対して今私達が接している文化が100年先の人たちにどのような評価をされるのかを考えました。現代では1年前の文化は時代遅れとなってしまいます。感情を揺さぶる以前に古くさいと思ってしまいます。しかしそれでは文化が育たない環境となってしまうのではないでしょうか。
現在は使い捨て文化が大隆盛です。紙に書くことよりテレビやラジオ、もっと身近にインターネットやSNSで表現することの方が多いのではないでしょうか。文化と言うより流行(はやり)です。社会の先生が常套句に使う『100年後の歴史の教科書を見て現在がどう書かれているか知りたい』という言葉が上滑りに感じます。現代が50年後100年後にどのような評価がされるか、恐ろしいなと思います。