日本の戦後教育は没個性と言われ、それに反旗を打ち立てたのがゆとり教育です。ゆとり教育の大きな柱に『個性の重視』があります。このこと自体は今までの教育界で置き忘れられたことであり、大切なことだと思います。
しかし、昨今の個性重視方針は少し違った方向に行っているように感じます。己の個性を何より優先することにより、他者を蔑ろ(ないがしろ)にしているように感じるのです。言うなれば草木が我先に日光や水分養分を得ようと他の草木より枝根を伸ばしている様です。草木がそのように生えている状態は見栄え良く映りません。庭や空き地であれば草取りをしなければならない状態です。個ではのびのびと育った健康個体であっても、社会の中には成り立っていないのです。それは枝根という個性を野放図に伸ばしてしまっているからではないでしょうか。
中国春秋時代の思想家であり教育者であった孔子、彼のお弟子さんは数千人いたと言われていますが、特に優れた人を『孔門十哲』と言います。そのうちの一人に子路(しろ)というお弟子さんがおりました。彼は元々剛勇の士で学問より長剣を好む人でした。彼が孔子の元に入門したきっかけは孔子の噂を聞き、問答を挑んだことから始まったそうです。以下は入門に結びついた問答です。
子路 「南山の竹は矯めずして犀革を貫き通すそうだ。元々の個性が優れたものには学問など必要ない」
孔子 「その竹を矯めて羽を付ければ犀の革を貫くどころかさらに強力なものになるのではないか。」
子路は孔子の穏やかな言葉を暫くかみしめた後、深々と頭を下げて教えを請うたそうです。決して言い負かされた恥ずかしさからではなく、孔子の言葉、声、態度、そして眼差しに得心して教えを請うたのだと思います。
この一節は本来、学問の重要性・必要性を説く際に引用されることの多いところです。しかし、勇猛果敢という個性を持った子路がそれを矯める(ためる)ために学問を志したことは現代日本において注視すべきなのではないでしょうか。つまり、武芸に偏重した考え方を修学により調和の取れた人格者の考え(『孔門十哲』に名を連ねるほどになったのですから)に昇華させることが出来たのです。
18章の『部活動と勉強』でも述べていますが、バランスの取れた取組みは非常に大切なことですが…忘れがちなのではないでしょうか。絶えず検証し、『部活動のための勉強、勉強のための部活動』が成り立つよう心掛けたいものです。その上で部活動に熱心な人こそ『勉強によって部活動を矯める』『部活動によって勉強を矯める』ことが出来るようにしたいものです。
更に『個性を伸ばしたい』と考えている人ほど矯めることを知るべきでしょう。矯めることは個性を殺すことと考えられがちですが、矯めることを知らなければ個性は伸びないものであり、輝かないものとなってしまいます。長い目で見ることが大切なのではないでしょうか。